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信州伊那 高遠城の桜 ―仁科盛信の夢はるか―  2006.04.26
                                         
高遠城跡公園 
↑ 高遠城址公園
 
 毎春、信州伊那の高遠城址には、可憐なコヒガンザクラが咲き誇る。これは明治8年、荒れ果てたままになっていた城跡をなんとかしようと、旧藩士たちが植樹したのが始まりだとか。ところ狭しと植えられた桜は咲き誇ると、その稠密度で空が見えないといわれている。
 東海、近畿の桜は、みんな葉桜になってしまった。ならばちょっと北へ足を伸ばしてみようと、高遠まで走ってみた。
 高遠の桜は10年ほど前と7年ほど前に訪ねている。最初のときは、評判に期待がパンパンに膨れ上がり、来てみると「それほどでもないなぁ」ということになりがちだが、2回目・3回目となると、歴史に彩られた高遠城の姿に触れる余裕が出来てくる。
 もう、高遠は満開が過ぎて桜吹雪…。桜の下を歩くと、花びらがはらはらと肩にこぼれ落ちた。   
中門前の堀にかかる 桜雲橋
↑中門前の空堀にかかる桜雲橋

 高遠城は、月誉山の西丘陵を利用して築かれた、戦国様式の山城である。伊那市内で天竜川に合流する三峰川が切り出した懸崖の地にあり、流れが城の南の広がりに造った高遠湖を見下ろす景勝の地にある。
 甲斐の国へ通じる街道の要所に位置し、伊那盆地を睥睨する政治上の要衝でもあったこの城に、戦国時代末期、この地を治めた武田信玄は四男勝頼、のちに五男仁科盛信をこの城に入れて南信支配の拠点とした。
 信玄亡きあと、長篠で勝頼が破れて武田軍は壊滅。勝ち誇った織田軍は、怒濤の勢いでこの城へと押し寄せる。和睦を拒否し、城を枕にして盛信以下の将兵三千は全て討ち死。高遠の桜が紅いのは、このとき流された血が大地に滲みこみ、そこに根付いた木に咲く花だからともいう。


 関が原の戦いのあと、城代として京極高知がこの城に入っているが、この高知の兄が小浜城主の京極高次であり、浅井長政の遺児三姉妹の二女お初を正室としている。
 なぜ、お初にこだわって書いているかというと、僕は長年の間、高次がこの高遠城の主で、戦国の運命にもてあそばれた浅井三姉妹のひとりお初が、他の二人(長女は茶々…のち秀頼生母の淀君、三女は徳川二代将軍秀忠の正室)のすざまじい生涯に比べて、この桜の下で安穏のうちに生涯を閉じたのかと、正直ほっとした気持ちを抱いてきた。ところが、この城に入ったのは、高次の弟の高知で、お初夫妻は高遠には来ていなかったのだ。
 お初は高次の正室として、居城は小浜城であった。彼女は他の二人の姉妹に比べると、歴史の表舞台に躍り出ることはなく、京極家
江戸小彼岸桜
↑ コヒガンザクラ  
  花は小粒で、ピンクが濃い
の正室として生涯を全うしている。ただ、自ら好まないとしても、数奇な運命の境遇を生きなければならなかった彼女は、大阪夏の陣・冬の陣では徳川方からの使者として淀君説得に出かけているし、豊臣家の最後を見届け、秀頼の遺児国松の遺骸を引き取り埋葬する役割を果たした。
 夫を47歳で亡くしたことも不幸であったが、余生を常高院と称して江戸の京極家上屋敷で過ごし、遺骸は若狭湾を望む常高寺に眠っている。


 城の南西角に、高遠湖を見下ろす展望を持つ屋敷がある。江戸幕府大奥を震撼させた、大年寄り「絵島」が、高遠流罪を受けて生涯を過ごした「絵島お囲い屋敷」である。
絵島囲み屋敷
↑ 絵島囲い屋敷
 絵島は七代将軍家継の生母「月照院」に仕えた大奥女中。32歳にして大年寄りとなる異例の出世をして、大きな権勢を持つに至ったのだが、上野寛永寺への墓参の際、山村座に評判の役者生島新五郎の舞台を見に行き、江戸城大奥の閉門時間に遅れてしまうという失態を起こした。
 時は1714(正徳14)年、7代将軍家継の時代であるが、将軍が幼いことから、前将軍6代家宣の正室天英院が大奥に留まっていて、家継の生母(家宣の側室)月照院とは幕閣の重臣を巻き込んでの主導権争いを繰り広げていた。絵島の失態はその争いの材料に使われた嫌いがある。
 公務をおろそかにしたという咎(とが)によって、絵島は捕らえられ信州高遠に流罪(高遠藩お預け)、生島新五郎は八丈島に流され、山村座は取り潰しにあった。絵島を預かった高遠藩では、城内の一角に屋敷を建て、絵島の生涯を看取ることとなる。
 歌舞伎や映画の「絵島生島」では、着物のつづらに生島が隠れて大奥へ出入りする場面が描かれたりしていたが、それらは多分に創作で、政争の道具に使うために、ことを大きくデッチあげたというのが真相ではないだろうか。
 絵島はその後の28年間をこの地で過ごし、1741(寛保元)年61歳で没した。後年、悲劇の絵島をしのんで、多くの文人墨客がこの地を訪れている。大正5年、田山花袋は桜の古木の下に眠る絵島の小さな墓を見つけ、手向けの句を、『縁(えにし)なれや 百年(ももとせ)ののち 古寺の 中に見出し 小さきこの墓』と詠んでいる。




← こぼれ落ちた花びらで 水面が覆い尽くされた池。
    池があるとは判らずに、落ちるところだった。










 夜には名古屋へ戻って、名古屋駅近くの「kuk-kik noodle(クックヌードル)」で、タイ料理を食べることにした。先日のタイ旅行で出あった奥深い味が、舌の奥のほうに残像を描いていて、美味しいタイブランチ料理を探せとうるさい。
 出てきた料理はまずまずのもので、いずれも食材良し、味も香りも、微妙なスパイスも満足のいくものだったけれど、先日のタイで出会った味とは何かが少し違ったのは、あのタイの暑さの中で食べるのとの違い…だろう。




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